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多久聖廟の概要

印刷 文字を大きくして印刷 更新日:2024年2月7日更新
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多久市は四方を山に囲まれた盆地で、緑豊かな自然と長い歴史を残している文教の里です。
江戸時代、多久氏によって治められていた多久領は、佐賀藩の要請で二度の上地を行い、領地は縮小し、財政的にも厳しい状況にありました。そのような中、多久家四代を継いだ多久茂文は、多久領を治めるためには教育も大切だと考え、学校と孔子像を安置する聖廟の建設を願いました。元禄十二(1699)年に、まず学問所(後の東原庠舎とうげんしょうしゃ)を建設して、中国から取り寄せた孔子像を講堂に安置しました。宝永五(1708)年には椎原山の麓に聖廟を完成させ、京都で鋳造した孔子像を納め、釈菜(せきさい)を行いました。

以来、約300年間、領民や市民の敬愛を受け保存されてきましたが、白蟻の被害や雨漏りが再び生じるようになりました。そこで、国・県の補助金を受け、昭和・平成にわたる大改修を実施し、平成二(1990)年に、創建当時の本瓦葺の聖廟が復元されました。

多久茂文の遺志は、多久市民の間に今日も脈々と受け継がれています。

 

聖廟

多久聖廟現存する聖廟としては、足利学校(栃木県)、閑谷学校(岡山県)に次ぐ古い建物です。建物は正面に唐破風、その後方に本堂があり、本堂奥には室が設けられ、室奥に聖龕(せいがん)があります。

木材・石材・瓦など資材の多くは領内で調達され、大工・木挽・画工・漆工・朱土塗・左官・屋根葺などの職人により工事が行われました。

建物には禅宗様式が見られ、建物の部材や孔子像の彫刻・文様には、中国の聖獣や吉祥文が見られます。※聖廟の彫刻・文様をご覧ください。


国重要文化財  昭和25(1950)年8月29日に指定されました。

 

孔子像

孔子像(青銅製)京都の儒学者の中村てき斎(てきさい)に制作を依頼し、元禄十三(1700)年に完成した椅坐像(いざぞう)で、青銅製とされています。高さ約90cm、重さ約108kgあります。

孔子像は、中国伝統の冕(べん)と呼ばれる礼服を着用しています。冠には、宝玉を垂らした飾りが前後に十二ずつあります。上衣(じょうい)と下裳(かしょう)には、日・月・星・龍・山・藻・火・粉米など十二種類の文様(章)が刻まれています。

多久市重要文化財  平成元年2月28日に指定されました。

 

 

 

聖龕(せいがん)

聖龕(せいがん木造)室奥の壇上にあり、孔子像を納める八角形の厨子(ずし)で、台に脚を付けています。屋根は本瓦葺(ぶき)を模倣した板葺で、板軒(のき)には全面に渦文が彫り込まれ、屋根の上には宝珠(ほうじゅ)が載せられています。厨子正面の柱二本には、纏龍(まといりゅう)が見られます。

国重要文化財  昭和32(1957)年6月18日に追加指定されました。

 

 

 

 

文廟記(ぶんびょうき)

文廟記

多久茂文が、聖廟を建設し、聖道を学ぶ必要性について、四書五経を踏まえながら記したもので、難解な文章です。

文廟とは、唐や宋代に孔子が文宣王と諡(おくりな)をされたことから、孔子を祀(まつ)る廟という意味です。

 

 

文廟記に書かれている内容(一部)

 ※次の文は、『丹邱邑誌漢文資料講解』荒木見悟著 による書き下し文及び解釈文を参考にしています。前三段は文廟記の冒頭、後段は末尾で、一部に原文の文字を用いながら、書き下し文調の現代語訳としています。


この時元禄十四年秋九月七日 以前京都で摸作した尊像が、遠路幸いに他の支障遅滞なく、すみかに多久に降臨された。喜びめでたく歓喜に堪えない。堂宇の土木工事がいまだ完成せず、仮室を塾(学問所)側に構え、しばらく尊体を奉安した。河波自安をして、釈祭と香を行わせ、代わりに私の誠を敬白させた。うやうやしく考えるに、私は不肖だが、多久家の長となり厳君の道が備わる。いわんや多久は狭小だが、しかも民の君たる責任は私一身にあるので、政治と教育の二つはひとえに廃してはいけない。そこで、武城牛刀(『論語』陽貨篇)の説にならい、毎年、儒者に子游(前掲書に登場する弟子)の一端をつかさどらせた。
(中略)
「廟社を見ると敬を思う」と古人が言っている。この言葉には極めて深い意味がある。人が廟社を敬う心を持ち、心に忘れず事に失わず、少しも敬から離れなければ、すべての善がここに集まる。そして賢人となり聖人となり、人の道が達成される。
(中略)
先儒(朱熹)は「敬は人の心の主宰で万事の根本であり、万世に聖学の基本である。」と言っている。この敬は、廟社を見れば起こり見なければ起こらない。このことから考えると、先ず聖廟を設け、そして人々に敬う所を知らせる。しかるのち、これによって導けば、労力を用いること少なく、効果を上げることはなはだ大きい。
(中略)                                                                      心ひそかに、余風(孔子の徳)を多久にも学びたいと思っている。(聖廟建設は)けっして美観を誇るというのではない。私の尊敬の誠が至らず、みだりに(聖廟を)多久に造り、何も知らない多久の人々をして尊霊(孔子の霊)をけがさせはしないかと、ただおそれている。ただ、人力の及ばない所は、伏して神明のたすけを祈るのみです。仰ぎ願います、至聖(孔子)の神明が永くこの地に降臨され、私一身から無数(の人々)に至るまで、今日から無窮(の将来)に至るまで、明々の徳をもって万生(すべての人々)をして明々にさせてください。伏して願います、昭明(あきらかにする 徳に目覚める)を垂れてください。 時に元禄十四年秋九月七日 多久伊豆稽首百拝して敬白する。